ブラコン爆発

久しぶりに兄と会った。

二人きりで会うのはいつぶりだろうか。父親が東京に用事がある際に三人で集まって飲みに行くことは年に数回あるが、会う機会はそれくらいしかない。

普段の生活の中で、わざわざ予定を決めて兄弟に会う理由を見出すことは非常に困難だ。

 

今回は兄が転職したということで、話を聞いておきたいと思い私から食事に誘った。

 

ほとんど会わない兄ではあるが、趣味が合うので非常に仲がいい。職種も近い。話も弾む。

 

話題の中心は兄の転職活動や新しい職場、最近読んだ本や「だが情熱はある」などになる。それが話したくて誘ったのだから良いのだが、そういう一般的な話題においては、会話はどうしてもお互いの「話題カード」の切り合いになってしまう。父親に気を使うことなく自由に話せる数少ない機会であり、話したいことも多いから当然だ。お互いある程度の人生経験を積んできたこともあり、スムーズに会話は進む。ステーキの食べ方が雑なことをアピールして可愛げを出しつつ、あくまで一定以上のマナーを守ることもできる。

 

しかし違和感もある。兄との会話はこんな秩序や脈絡があるものだったろうか。そして私はこんな人間として振る舞っていたのだろうか。

 

「世界の事象に対して、自分なりの考え方や捉え方を一定の水準で確立している。それが陳腐で幼稚なものであることもわかっている。それでも私は大多数の人々よりは“マシ”であることは自覚している。」そういう自分として会話する。

ちょうどこのブログでの私と同じように。

 

兄も同じような私の違和感に気づいているようだった。私が兄の前で気取って話していることに、兄は気付いていたように思う。

 

これは「本当の私はこうじゃない」とか、「昔はこうだったのに変わってしまった」という話ではない。おそらく、昔からずっと私はこうだった。

 

兄との会話のやり方あるいは兄との関わり方において、現状がベストではないと思っている、というだけだ。そこには改善の余地がある。

10年ぷよぷよをやってきた私の土台手順にまだまだ改善の余地が残っているのと同じように。

 

結局、こち亀148巻のキレやすい男や、モンブラン・ノーランドの生き様について、お互いの認識が一致していることを確認する時間が最も心地よく、最も有意義だった。 

 

兄に勧められた本の感想を書こうと思って筆を取ったが、長くなったしここまでにしよう。

書こうと思っていた感想も勿論「気取った」ものなので書く気が失せてしまった。