唾を吐く

8/10(月) 日記

 

 

私は飯田橋にある大学に通っていた。

当時大学の自習室や図書室はなんとなく居心地が悪く、読書や勉強をする際には付近のチェーン店のカフェを利用していた。ドトールとかヴェローチェとかタリーズとか、はたまた別のドトールとか。

大学を卒業して3年と少し経った今でも、何か集中して読みたい本があったりすると飯田橋を訪れる。行きつけだった数店舗は潰れることもなく全て同じ場所にある。変わったのは喫煙席が無くなったことくらいだが、これは私にとってメリットしかない。

 

この日は特に読みたい本があったわけではないが、考え事をしたい気分だったので飯田橋を訪れることにした。

自宅のある和光市から有楽町線飯田橋へ向かう。地下鉄を降り、いつも通りB3出口から地上に上がろうとしたが、西口に新駅舎が完成したことを思い出してそちらへ周ってみる。

駅舎は確かに新しくなっていたが、特に珍しくもない近代的な黒塗りの建物だった。四ツ谷駅に似ているように感じた。

駅前には浴衣を着た数人の男女がいたが、どこかで祭りをやっているわけでもないだろう。とするとこの人たちは「今日浴衣を着て遊ぶ!」と決めて実行したということになる。尊敬に値する。

炎天下だったこともあり、私は数秒でその場を離れた。

 

やっぱり本が読みたくなったので遠野遥さんの『破局』を買い、大学の隣のドトールに入った。この店は3階建てだから好きだ。3階建ての店は総じて3階が空いているから好き。

 

思惑通り空いていたので、壁際の一人掛けソファに座れた。

隣では同世代くらいの女性がデザイン系の本を読んでいる。美大か何かの教科書だろう。

窓の外に神楽坂の昼の往来がよく見える。

胸の大部分をさらけ出した外国人女性は暑さで顔が赤い。ベタベタ感が3階の私まで伝わってくる。若い夫婦が3歳くらいの子供の手を引いて道路を渡っている。ほとんど進んでないようなペースで歩く老人の脇をリュックの大学生がすっと抜かして、そのまま一定の速度で坂を上っていく。

「休日はカフェで窓の外を見て人間観察をするのが趣味」と言っているような女性のことを馬鹿にしていじり倒している映像の微かな記憶がある。テレビだったか、Twitterだったか、コントだったかは忘れた。私も概ね賛同していたはずだ。

鞄から本を取り出した。椅子の位置を変えてソファに深く腰掛け、ページを開く。

 

 

 

 

小説もそろそろ後半に差し掛かるというとき、後ろで話している声が気になった。

男女の声。男の方は声が大きい。

住んでいる場所の話とか、休日にやることの話をしている。話の感じからすると、まだ初対面かもしれない。マッチングアプリなどで繋がって、まずはこういうカフェで会う。多分そのパターンだろう。トイレの場所を確認するふりをしてちらっと後ろを見る。

 

男は港区のマンションに住んでいるサラリーマンだ。外資系っぽい。なんとなくそんな雰囲気がある。清潔感を凝縮したような真っ白いTシャツを着ている。シンプルだがいい服だということが一目でわかる。髪型は中央分けで対象に整えられ、ツヤツヤと光っている。おるたなチャンネルのないとーさんに似ている。

 

男の声は断片的にしか聞こえない。

 

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休日はこうやって人と会うこともあるけれど、大抵は一人で過ごしている。会社の同僚にボルダリングやフットサルに誘われることも多いが、なかなか足が向かない。スポーツは好きだけど、その後に明け方まで飲み続けるのが苦痛だからだ。家の近くで運動できる施設を探したこともあるが、金持ちばかりで馴染めなかった。

旅行が趣味だったが最近はどこにも行っていない。彼女でもいればいいんだけど、一人ではどうにも。

こうやって女性と会うとこもあるが頻度は全然多くない。出会いの場は様々で、アプリで女性を探すこともある。30にもなってるわけだし、落ち着いて話せる人を探しているんだけど、会ってみるとバリバリのインスタグラマー(笑)が多い。そういう人ってなんで「いいね」してくるのかな。それで普通にサラリーマンやってるって言うと女の子に驚かれる。普段どんな人たちと会ってるんだろうね、この世に社長と医者しかいないと思ってるのかな。

 

 

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女の方はそんなに声が大きくないため、何を言っているかはわからない。時々、男の話に笑い声を合わせているのだけが聞こえる。

女の話にも男は丁寧に相槌を打ち、大いに賛同しているのはわかる。内容はよく聞き取れない。

 

一旦本をテーブルに置き、スマホで時間を確認する。

隣の美大生は例のデザインの教科書には飽きたのか、MacBookを膝の上にのせて動画を見ている。目と画面が近くて心配になる。

窓の外には変わらずに神楽坂を流れる人が映っている。みんなが幸せになればいいと思う。

 

そのまま1時間くらいかけて小説の残りを読んだ。読み終わって静かに感傷に浸っていればいいのに、すぐに賞の選評なんかを調べてしまう。自分が全く気付かなかった読み方が前提事項のように書かれているとドキドキする。特にこの小説が気に入ったわけでもないが、「肉体からの言葉で書かれていない」みたいな抽象的で的を射る気がない批判には腹が立つ。具体的な批判は理解できないのが怖いので、適当に読み飛ばす。

 

 

後ろではまだ先ほどの男女が話している。最初に比べるとかなり打ち解けたようだ。不自然に大きかった男の声は、気にならないレベルまでトーンダウンしている。高校のバスケ部の話や、ここ数年の旅行、恋愛観や結婚観なんかを話しているのは聞こえた。そうやって仲を深めると良い。男の謙虚で気取らない話には好感が持てるし、女も楽しそうにしているのが伝わってきた。男は“いい人”の基準をすべての項目で越えている、合格点だ。私も、女も、男も、それを感じて意識しているように思えた。

 

この店に入ってから3時間近く経っていた。本も読み終わったし、そろそろ出よう。私は鞄を持って立ち上がった。隣の席の美大生はもういなかった。

 

初めて女の姿が確認できた。男の顔だけを見て話を聞いている。肌は白く、男と同じように服も白く輝いていた。確かな強い線で描かれたような顔だった。

 

男の後ろを通る。綺麗に刈り上げられたえりあしと、健康的な色の首筋だ。

 

 

立ち止まった。

私は口の中にたまっている唾を、その男の首筋に向かって吐きかけた。

唾は男の首の左側とTシャツの肩のあたりに付着した。

 

「えっ」と女が声を上げて口を押えた。男はバッと振り返る。私と目が合って、状況に気付く。

「ちょっと!え!?どういうこと?」

男もさすがに驚いて興奮している。私も自分がやったことを理解し始める。

この男に唾をかけた?誰が?私が?

 

なんてことをしてしまったんだ、なんてことを……。みるみる顔が紅潮していくのがわかった。

 

そこからはひたすらに謝った。男は最初こそ興奮していたが、すぐに冷静さを取り戻して適切に対処した。女が差し出したハンカチを断って紙ナプキンを取ってきて首を拭いた。自分の体以外に唾が飛んでいないことを確認した。女に「大丈夫、大丈夫」と微笑みかける。

私は何もすることができず、「すみません」と「ごめんなさい」を繰り返しているしかなかった。

私がいつまでも謝り続けるから、男も「大丈夫だから、そんな気にしないで」と呆れたように言った。

クリーニング代にと1万円札を渡そうとしたが、どうしても男は受け取らなかった。私は何度目かわからない「すみませんでした」を言って、階段を降りて店を出た。

 

 

あまり記憶にはないが、そのまますぐ地下鉄に乗ったのだと思う。

 

「次は和光市」というアナウンスに顔を上げると、車窓にはオレンジ色の光景が広がっていた。和光市の住宅街が夕日に染まっていた。平屋の1戸建てや、2階建てのアパートが立ち並ぶだけの街。すべての建物が等しくオレンジ色に染められようとしていた。

 

なぜ私はあんなことをしたのか。

私はあの男女をひがんでいたわけではない。男も嫌な奴ではなかったはずだ。全く悪意は持っていなかった。

あの二人が本当に上手くいけばいいと思っていた。

あの時の私は意識がなかったのか。わからない。自分じゃない誰かの意思でやっていた気もするし、明確に自分の意志でやったようにも思える。

自宅に着いて鏡を見た。首から耳まで赤く染まったままで、口や目がヒクヒクと動いている。その顔は自分のものではないみたいだった。

怖くなって布団にくるまって目をつぶる。

「大丈夫だから、そんな気にしないで」という、あの男の溜息交じりの声が聞こえた気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この日記はフィクションです。