ツイート解説その1
人それぞれ、嫌いな言葉ってありますよね。
嫌いっていうからには、それ相応の理由があるはずです。あってほしいです。
よくあるのが、時間が経つにつれて「嫌いの理由」は忘れ去られ、その言葉が嫌いだという「意識」だけが残っているパターン。
二次災害として、その言葉を使っている他人を嫌ってしまう、という事故も発生し得ます。要はわけもわからないまま他人を嫌っているアホとなるわけです。
幼い頃に「こういう言葉は使ってはいけない」と洗脳されるのも似たようなケースですね。深く考えずに言葉に嫌悪感を抱いてしまう。これは一生解けない呪いとなることも多いでしょう。
いつ書いたか分からない、私の嫌いな言葉リスト 「良いもの」「ガイジ」「千秋楽」「同族嫌悪」「ミーハー」「ご飯に行く」「依存」「推し」「怖い」
今回はこれらの言葉が嫌いな理由を解説します。
前提条件としてですが、言葉というのは使われる文脈で意味が変化します。
ここで「嫌い」と言っているのは、「このような文脈で」「この言葉」を使うのが嫌だという意味です。
私は言葉を無条件で嫌いになったりはしませんし、ましてそれを使っている他人を嫌いになる、なんてことはありませんのであしからず。
・良いもの
母がよく使う言葉です。「調味料は良いものをつかいなさいよ」「高かったけど良いものだから長く使える」みたいな使われ方。
良いものと悪いものの境界線は存在するのか、あなたにはそれを判別する能力があるのか、非常に疑問です。とりあえず自分のお気に入りや理想を「良い」としている自己正当化の影が垣間見えるので、嫌いです。
・ガイジ
障碍者を馬鹿にするのが嫌いというわけではないです。能力が低い人が馬鹿にされるのは普通のことで、だれしもそういう心は持ち合わせているはずです(自覚してない奴が多すぎる!)。ただ「障碍者だから」馬鹿にされるのは完全な悪、差別であり排除であると感じます。
「ガイジ」は「知的障害児」の略であり明らかに侮蔑の意味が込められています。明らかに「障碍者であること」を馬鹿にしているわけですから、嫌いです。
それともう一つ「ガイジ」が嫌いな理由が。(こっちがメインです)
圧倒的に嫌いなのは、「ジ」の部分です。
この言葉を使うときに抱くイメージは、自分たちが通っていた小学校の特別学級などにいた、同世代の知的障碍「児」たちでしょう。
子供心で彼らの異質さに対して抱いた負のイメージをその年まで冷凍保存して、いまだに消費している。
イメージが一度でも更新され、それでもなお蔑む心が発生したならば、対象は知的障碍児から知的障碍者全体に広がり、ガイジは「ガイシャ」となるはず。
いわば「ガイジ」を使う人間は「私の精神性は小学生のままですよ」と周りに言いふらしているのです。その醜さたるや。目も当てられません。
・千秋楽
千秋楽は演劇や相撲の最終日を示す言葉ですね。これ使いたがっている人多いです。
小さな劇場のしょうもない舞台でも、「千秋楽」と言っておけば大盛り上がりの大円団、といったニュアンスに聞こえて笑ってしまいます。やめてほしい。
また「千秋楽」にはイキった匂いがぷんぷんします。
いつも「実はこういう語源があって、慣用的にこんな意味で使われているんだぜ、おもしれえだろ~」っといった顔しています。
でも「千秋楽」の語源はよくわかってない(諸説ある)んです。しかも、特に面白いもでもない。実力ないくせに威張っているのは嫌いですね。
・同族嫌悪
A「プライド高くて他人見下すやつ嫌いだ」
B「それ同族嫌悪でしょ?」
こういう会話で使われるのが無理。Aさんは「こういう奴は嫌い」という話をしているのに、Bさんは急にAさんの性格の話にすり替えている。そんな話はしていないのに。それで決まってBさんは「してやったり」みたいな顔をする。
・ミーハー
これ、昔に流行った言葉ってイメージです。
その「古い言葉」という印象と、語義の「新しいもの好き」という部分がかみ合ってなくて、ちぐはぐになってる気がします。使うたび、首をひねってしまいます。
・ご飯に行く
つい最近、私のお気に入りの作家である朝井リョウ先生がラジオで結婚を発表(事後)されました。そのときに「披露宴はしないけど、むこうの親戚の方々とはちゃんと会ってご飯に行くみたいなのが必要だと思っている」とおっしゃっていました。
いや、なんでご飯に行く必要があるんでしょうか。普通にしゃべればいいし、仲を深めようと思ったらもっといろんな手段があるでしょうに。大喜利とか。
これは異性関係でもありがちです。
「ご飯に行く」は「デートに行く」とほぼ同義、とまでは言いませんがそれに準ずる表現として使われています。
そんなに飯が好きなのか。そんなに飯を一緒に食べたいのか。せっかく好きな人といるのだからもっと楽しいことをやればいいんじゃないのか。
私もご飯に行くことは楽しいし、普通に好きです。でも、もっと楽しいことは無数にあります。大喜利とか。
高いポテンシャルを持った「遊び」の数々が、何百万年前から続く娯楽の帝王「ご飯」だけに虐げられ、誰にも存在を認知されず行動の選択肢に入ってこないのは、おかしいし、悲しい。
・依存
これ言っとけば恋愛を俯瞰でとらえられている気になっている勘違い野郎どもが大嫌い。
・推し
自分はあの人に貢献していますよ感が強く伝わってきて嫌です。言葉的には「俺の嫁」と同ランクくらいのはずなのに、使っている方々にはその自覚がなさそう。覚悟を持って使っているのなら好きです。
・怖い
一時期私もよく使っていました。これ、思考停止して会話する人が良く使う気がします。なんでも怖いって言っておけば、常に自分は健常者で被害者、相手はバケモノという立場になります。会話弱者にとってそういった立場って居心地がいいのかもしれません。
でもこれに関してあんまり考えられていません。これは未来の記事のテーマにします。
とにかく何が「怖い」のかちゃんと考えもせずにとりあえず「怖い」と言っちゃう奴らは反省してほしいです。
最後に。一貫して言えるのはやはり思考放棄が嫌いということですね。
それと、自分の嫌いな言葉を他人に公表するのは賢明とは言えません。
会話がやり辛くなります。ご注意ください。