続・嫌いな言葉

前回の記事はこちら

tacladder.hatenablog.com

 

 

前回も書きましたが、「言葉が嫌い」と「人が嫌い」は違いますのであしからず。

 

 

1.「名前を憶えるのが苦手」

自己紹介で3人に1人くらいが言ってます。これは「嘘」です。絶対嘘。そんなわけない。嘘をついていることを自覚して、自分の言動がいかに厭らしいかを恥じてほしいです。

 

まず、「関心を持った人の名前は憶えるし、そうでない人の名前は憶えない」

というのは言うまでもないことです。

小学校出てるならこれくらい誰でもわかります。

 

その上で、自分は関心を持った人の名前も憶えられない特異体質だ。

というのがこの、「名前憶えるの苦手」論者の主張です。

中でもこの「苦手」に、「超絶苦手」とか「絶望的に苦手」とか「死ぬほど苦手」とか陳腐な修飾語をつけて、さらに特別感を演出しようとしているのが一番嫌いです。

これが「そんなわけない」というのは当然としてありますが、それは置いておきましょう。本当にそういう人も1%くらいはいるでしょうし。(これ以上は発達障害的な話になるのでやめておきます……)

 

なので今回は、この発言自体の愚劣について言及していきます。

 

「名前苦手発言」をした場合、そうでない場合に比べて明らかに「相手の名前を憶える努力」を怠ってしまうでしょう。

要は「名前苦手発言」は「努力しない宣言」と同じです。

 

もし相手に悪い印象を持たれたくないのなら、努力はすべきです。

もし本当に「名前を憶えられない体質」であるならば、メモするなり、一緒にプリクラ取るなりして憶えればいいのです。

 

そういう努力ができないのならば、余計なことは言わないでください。DNAのせいみたいに言わないでください。

次会った時に名前を憶えてなかったら、素直に謝りましょう。また自己紹介しましょう。それでいい。

 

もちろん私も、人の名前は全然憶えられません。

でもそれは、「そういう体質だから」ではなく、「憶える努力をしていないから」です。

 初対面ですぐに強い関心を持てるほど、私もあなたも魅力的ではない。

 

 

2.「黄色い線の内側」

ひとつ目でいろいろ書きすぎたので軽めのやつで。

これ、子供のころからずっと思っているんですが、「黄色い線の内側でお待ちください」って良くないと思うんです。

 

そもそも黄色い線の内側とはどこなのでしょう。

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当然ここですよね。もちろんわかります。25歳なので。

 

上の図は、「ホームの全体像をつかめている大人の視点」で考えた図です

これが、例えば5歳の子供にとってはどうなのでしょうか。

 

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また図にしました。左がホーム側、右が電車がくる側です。

ホームギリギリか、黄色い線上に立っている子供(実際に一番注意すべき対象)にとっての「黄色い線の内側」とはどこなんでしょうか。

この図からだと、よくわからないと思います。

「黄色い線の上」がまさに「黄色い線の内側」とも言えるし、

「外側に立っている人」から見ると外側こそ内側なのかもしれない。

 

もちろん、日本語も危機管理能力も成熟している我々にとっては何も問題ないですが、そのへんがわからない子供や外国人にあいまいな注意喚起をするのはどうなのかな、と。

 

3.「絡む」

これは別に嫌いというわけではないです。なんというか、いまだに理解できない概念かなあ。

中学後半~高校1年くらいで、急に「絡む」という概念が登場しました。

当時なんとなく掴んだ語感としては、

「メールとか個人ブログとかモバゲの掲示板で、1対1で勢いのある話をする。」

という意味でしょうか。この「勢いのある話」というのが非常に難解です。

普通に私が話したり、書き込んだりしてもなんだか「絡んでいる」という実感が持てません。なぜでしょうか。

 

この前、後輩がこの「絡む」を使っていたので久しぶりに思い出しました。

よく考えたら、「絡む」には「内容のない話をする(話をして交わること自体が目的)」というニュアンスがありますね。そういった意味だと、嫌いかもしれません。

 

 

4.「考えすぎ」

 

まず1つに、「考えすぎていると言っている人が深く考えられているわけではない」というのがあります。

こちらの記事にも書きましたが、人間の思考は御しがたく、リングワンデルングしやすいものです。

これは偏見ですが、すぐに「考えすぎかなー」と言って思考をオリてしまうような人が、それまでに理論だてた思考をしているようには思えません。

 

2つ目に、「考えすぎるのをそんなに簡単にやめることはできない」というのがあります。これも先ほどと同じ、「人間の思考はコントロールできない」で説明されます。

 

そして3つ目に、(こういう場合は3つ目がメインです。)

「考えることは最善である」からです。

よく、「考えずに直観に従ったほうがよかった」などという後悔を耳にします。(クイズ番組とかで)

でもそう思うのなら、やはり考えが足りなかったのです。

 

クイズに限らず、人生で何かの選択を迫られている場面にあるとします。

最初Aだと思ったけど、Bの方がいいかもしれない。

Aの方がそれっぽく思えるけど、今までの経験からするとBの方が無難かもしれない。

 

そういう場合は、考えるしかないんです。自分の知識と、感覚と、思考力のすべてを使いましょう。

自分の直観も、期待値の計算も、風水でも運勢でもなんでも考慮に含めて、それらに重みをつけて考える。

もちろん、早急な判断が求められる場合は、「n秒以内に結論を出すのがベストだ」というのも考えたうえで判断する。

それが人間として生きるということでしょう。

 

なんか大げさに書いてしまいましたが、実際はこれらのことって、みんな普通にやっていると思います。人間は知識や経験から、物事を総合的に判断するようにできています。

だから、「考えすぎなければよかった」なんて言わないで。あなたはちゃんと最適な判断をしています。

 

 

最後に

「嫌いな言葉」とは銘打ったものの、結局いつものような感じになってしまいました。

以前のようにポンポンと嫌いな言葉が浮かばずに困りました。私の「嫌いアンテナ」が鈍っているのかもしれません。

 

最近のネット社会では「好きなものを好きなもの同士で共有できればいい、嫌いな奴は黙ってろ」みたいな風潮が強いように感じます。

それはそれで正しいのでしょうが、何かしら引っかかる部分もあります。

人間同士の相互理解において、「嫌いな部分を無視する」という行為はやはりどこかしらで「諦め」が垣間見えます。

好きも嫌いも含めての人間。嫌いの発信は悪ではありません。

 

悪ではありませんが、損であることは多いです。